序章
私たちが考えたり、感じたり、行動したりするときには、脳の中に無数にある神経細胞とよばれる細胞が、頻繁に信号を発して情報のやりとりをしています。脳が発する信号は、背骨の中を通っている脊髄(せきずい)という組織を介して、身体に伝えられます。脳と脊髄の神経細胞が正常に発達しなかったり、あるいは、大人になってからまだ身体は元気なのに、神経細胞の形や機能が異常になってしまう病気が知られています。こういった病気の多くには、正常な神経細胞にはない、異常なタンパク質の塊が溜まる、という特徴があります。このタンパク質の塊とはなんでしょう?
このことを考える前に、まず、細胞の中で、タンパク質がどのように作られるのか、考えてみます。
人間の身体の設計図ともいうべき遺伝子の一揃い(ゲノム)は、DNAという物質に書き込まれていて、その数は、およそ2万種類と言われています。この設計図は、4種類の物質(仮に、A、T、G、Cの文字で表します)の並びによって記されています(下の図)。このDNAの配列が、DNAとよく似たRNAという物質にコピーされます(転写されます)。RNAにコピーされたA、T、G、Cの配列情報は、3つの文字の区切りごとに意味を持っていて、3つの文字が1つのアミノ酸に対応しています(DNAのTは、RNAではUに変換されます)。例えば、GCAというRNAの3文字はアラニン、UCUはセリンというアミノ酸を指定します。このようにして、RNAにコピーされたDNAの配列情報は、順番にアミノ酸が数珠つなぎになったものへと変換されます(翻訳されます)。こうして出来上がった数珠つなぎのアミノ酸こそが、タンパク質です。このように、転写、翻訳という流れに沿って、遺伝情報は読み出され、使われます。2万種類の遺伝子があるということは、タンパク質の種類も多様です(なかには、翻訳されないRNAをつくる遺伝子もあります)。
では、この概念としての遺伝情報の流れは、細胞という空間のなかでは、どのように流れているのでしょうか。まず、DNAは、細胞核(さいぼうかく)とよばれる膜で隔てられた球形の区画に納められています。ですので、DNAからRNAへのコピー(転写)は、細胞核の中で行われます。転写によってできたRNAは、細胞核を出て、細胞質(さいぼうしつ)という細胞核の外側のスペースに運ばれます。この細胞質で、RNAからタンパク質への変換(翻訳)が行われます。RNAの翻訳によってつくられるタンパク質は、タンパク質になってから自分の仕事場に移動する場合も知られていますが、多くの場合、タンパク質の仕事場にRNAをあらかじめ運んでおいて、そこで翻訳を行うという合理的な仕組みがあることが知られています。
さてここで、下の図を見てみます。左側にあるような単純な形の細胞なら、前もってタンパク質の仕事場にRNAを運ぶことは、容易かもしれません。一方で、右側に示したように、神経細胞のほとんどは、情報を運ぶという性質上、全体としては細長くて、その細長い細胞の両端には、他の沢山の神経細胞と接続するために、複雑な突起を沢山持っています。例えば、人間では足の動きをコントロールする脊髄の神経細胞に、直接接続する脳の神経細胞が知られています。身長か高い人なら、その長さは1メートル近くになるかもしれません。神経細胞は、情報を受け取ったり、受け渡したりするためのタンパク質を、あらかじめタンパク質の仕事場にRNAを運んでから、翻訳することが知られています。この“あらかじめタンパク質の仕事場にRNAを運ぶ”という役目は、神経細胞のような複雑な形をした細胞では、特に大切なことは想像に難くないでしょう。
さて話を、神経細胞に異常なタンパク質の塊が溜まる病気、に戻します。実は、この異常な塊を作るタンパク質には、“あらかじめタンパク質の仕事場にRNAを運ぶ”という役目を担っている場合があることがわかってきました。このようなタンパク質は、自分自身がRNAの翻訳によって作られると、今度は他のタンパク質を作る為のRNAと結合して将来“正しい場所”で翻訳されるように、RNAを運ぶ手助けをします。このような性質をもったタンパク質は、数多く存在し、RNAと結合することで、細胞核や細胞質で、水の中にある油滴のように液体状のドロップを作ったり、場合によっては、さらに硬い固体のように振舞いながら、RNAが適切な時間と場所でタンパク質に翻訳されるのを助けています。この柔軟に形や質を変化させる性質が、神経細胞に異常なタンパク質の塊が溜まる病気に深く関わっているのではないか、と考えられるようなってきました。本来は、柔軟に形を変えることができるRNAとタンパク質が、何らかの原因で、共に氷のように固まってしまうのか。あるいは、本来はRNAと結合して柔軟に形を変えることができるはずだったのが、なんらかの原因でRNAと結合できず、タンパク質だけで塊になってしまうのか。
この総説で着目するTDP-43(ティーディーピー43)というタンパク質は、転写から翻訳に至るまでRNAと結合して正常な場所でタンパク質が作られるように助ける機能を持っています。TDP-43は、2万個の遺伝子のうちの6,000遺伝子(全遺伝子の30%)から作られるRNAに結合すると言われています。神経細胞の一つである、運動ニューロンに異常なタンパク質の塊が溜まる病気の一つとして知られる筋萎縮性作硬化症(ALS)では、このTDP-43の異常な塊が蓄積します。TDP-43がRNAと共に液体や個体のように振舞う性質から、ALSの原因を探ることができるのでしょうか。
細胞に凍てる雫、TDP−43液滴とALSの接点を探る(3)へ続く
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「細胞に凍てる雫、TDP−43液滴とALSの接点を探る(2)」への2件のフィードバック