ルー・ゲーリッグは、ALSリバーサルを経験したのか?

ALSにおける筋力の衰退が、ごく稀に一時的に停止し、筋力が回復することがある、とされるALSリバーサルという現象について、ALSの別名(ルー・ゲーリッグ病)の由来となったNYヤンキースの大打者ルー・ゲーリッグの1938年シーズンの打撃成績を追いながら、Duke大のBedlack博士がコメンタリーを寄稿していましたので、和訳してみました。(読み易さを優先したため、一部、意訳が含まれます)

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ヤンキース名選手の小春日和:ルー・ゲーリッグは、1938年シーズンの8月に、一時的なALSリバーサルを経験したのか?

要旨

1938年は、強打者ルー・ゲーリッグがシーズンを通してプレーした最後の年。その後、彼は筋萎縮性側索硬化症ALSで引退を余儀なくされた。ゲーリッグは、シーズンを通して投打に苦しみ、最終成績、打率0.295、本塁打29本、打点114は、彼にしては異常に低かった。しかし、シーズンの半ば、短い間ではあるが、彼は以前の調子を取り戻したかのようであった。つい最近まで神経内科医や野球歴史家に詳しく研究されることはなかったが、この3週間は、“鉄の馬”が、一時、ALSリバーサルを経験したことを示しているかもしれない。これは、ALSの研究者や患者にとって有益な情報となるかもしれない。

本文

筋萎縮性側索硬化症(ALS)は、よく“容赦が無いほど進行性である”と言われるが、これは常に真実であるとは限らない。少なくともこの40年間には、ALS患者の中に、症状が進行しないで安定する期間(プラトー)や、改善する期間(リバーサル)を経験した人がいたことが知られている。ALSリバーサルは、ほとんどの場合、程度が小さく、短期間であるが、稀に、改善の程度が大きく長期に渡ることがある。このリポートでは、我々はALSが一定のペースで進行するのではないことを明らかにするために、ルー・ゲーリッグの最後のシーズンを、これまでになく詳しく解析した。我々は、1938年の8月に、ゲーリッグが、一時的なALSリバーサルを経験していたと主張する。そして、このようなリバーサルに気づくことがなぜ重要なのか、を説明する。

1938年のはじめ、ルー・ゲーリッグは、後に彼の名前がつけられ、彼の命を奪うこととなった病の初めの症状を自覚した。春のトレーニング中、スポーツライターは、彼がいつものように強い打球を飛ばしていないことに気づいていた。ゲーリッグ自身も、まともな打球音がない、と言っていた。ひどいスランプのまま、シーズンを迎え、8月のはじめには、打率、本塁打、打点は、キャリア平均を大きく下回っていた。スポーツライターの中には、13年、2000試合以上にわたって続いていた、“鉄の馬”、ゲーリッグの有名な連続出場記録をもう終わりにすべきだ、と書き立てる者も現れた。

テーブル1を一部改変

その後、8月7日から3週間の間、ゲーリッグのパワーがなぜか戻ってきた。彼の打率と長打率が、劇的に上昇し(テーブル1)、彼の代名詞ともいえる長距離の本塁打を再び放つようになった。特に成績が良かった10連戦では、2塁打を6本、本塁打を6本、22打点を叩き出した。ホームランが、フィラデルフィアシャイブパークを飛び出て、通りの向こうの家の玄関にバウンドしたという。ニューヨークヘラルドトリビューンのスポーツライター、ラッド・レニーは、“彼は、恐ろしいベテランだ。ファンにはわかる。ファンは、大きなことを成し遂げる強い男の為に大切にしまっておいた、はち切れんばかりの歓声で彼を出迎えた”

ゲーリッグの“Indian summer”(小春日和)は長くは続かなかった。シーズンが終わる頃には、ヒットのほとんどがシングルヒットになっていた。打率は下がり、長打率も急落した。翌1939年のシーズンの初めには、満足の行くプレーができず引退を余儀なくされた。ゲーリッグは、その年の6月にALSと診断され、その2年後に亡くなった。

ゲーリッグが1938年8月に見せた、一時的ではあるが、驚くべき復調には、確かにいくつかの説明が可能である。7月の後半には親指の骨にひびを抱えながらプレーしたが、その後は怪我なくプレーしている。何人かのスポーツライターが、“平手打ちのルー”は、例の好調期間には軽いバットを使っていたことに気づいている。これにより、理論的には、より速くスイングし、より大きな力を生み出すことが可能になり、筋力の衰えを補うことができる。また、別のライターは、1938年のシーズン中、ゲーリッグが、いくつかの違ったバッティングの構えを試して、両足をホームベース方向に向ける、彼本来のスタンスに戻した、と書いている。レニーは、“ゲーリッグは、彼を有名にしたバッティングの構えに立ち返った”としている。彼は、全ての打者がそうであるように、ただ単に好調を楽しんだだけなのかもしれない。そしてもちろん、球速の遅い、カーブの曲がらない球を投げる平均以下のピッチャーと対戦したのかもしれない。

しかし、これらの全ての説明には注意を払わなくてはならない点がある。怪我に関して言えば、38年シーズン、そして、実は連続出場した全2,130試合を通じて、ゲーリッグは、前十字靱帯損傷、大きな骨折、そのほかアスリートが休まなくてはならなくなるような病気をすることなく整形外科的には良い健康状態にあったことを忘れてはいけない。ゲーリッグには、1934年に一度打席に立った後、背中の痛みのためにゲームを休んだ、という有名な出来事があったが、こういったことは例外的であり、常習的ではなかった。また、打撃の器具や技術に関しえ言えば、6ヶ月におよぶシーズン中に、ゲーリッグ(や、他のプレーヤー)が、軽めのバットを使ったり、構えを調整することは、決して珍しいことではない。例えば、1930年には、ゲーリッグは、バットの重さを38オンスから、36.5オンスに軽くしている。

好調期間について言えば、30代半になってからもゲーリッグにとって好調期間は珍しいことではない。例えば1937年には、打率.357、本塁打11本であったが、1936年6月は、打率.453、本塁打12であった。1938年8月の例の3週間が際立つのは、彼が安定して力強いバッティングをしたのはその3週間だけ、だからである。この間のたった24試合で、シーズン本塁打と打点の3分の1を叩き出しているのである。シーズンのそれ以外の期間は、長打は散発的であった。

好調期間を最も端的に物語るのは、急激に上がった長打率である。長打率は、打者の出塁ベース数を打数で割った数字である。出塁ベース数が増えるほど、長打率は上昇する。38年シーズンのはじめの4ヶ月は、ゲーリッグの2塁打、3塁打、本塁打は比較的少なかった。8月7日までの95試合で、長打率は.486で、ゲーリッグにとっては低調であった。その後、8月の好調期間だけを見ると、長打率は.743であった。好調期間のあと、8月26日からシーズンの終わりまでは、長打率は463に降下した。打率こそ、.300前後に留まったものの、ヒットといえば、ほとんどシングルヒットであり、力の衰えを示している。

ゲーリッグは、この期間、標準以下のピッチャーと対戦したのだろうか?一言で言えば、答えはNOである。好調期間と、その前後で、ゲーリッグが対戦したピッチャーの累計防御率を集計することはできない。もしできたとしても、その数字は誤解を招きやすい。なぜなら、1930年代のアメリカンリーグは、ピッチングよりバッティングが優勢で、優れたピッチャーであっても、防御率は歴史的な高さであるからだ。20日間の好調期間には、ゲーリッグが、平均的、並のピッチャーに加えて、何人かのとても優れたピッチャーと対戦していることは確かである。好調期間の一本目のホームランは、シーズン好調であったMel Harder(17勝10敗、防御率3.83。キャリア223勝。)から。最後の一本は、これまたシーズン好調であったFamer Bob Feller(17勝11敗、防御率 4.08、リーグ最高記録となる260三振)から。8月18日の決勝の2塁打は、ワシントン・セナターズのエースDutch Leonard(12勝15敗、防御率3.43)から。8月23日のサヨナラホームランは、ホワイトソックスの有望若手ピッチャーJohnny Rigney(9勝9敗、防御率3.56)から。Allen (14勝8敗、防御率 4.19) and Thornton Lee (13-勝12敗、防御率3.49)から、マルチ安打も打っている。ここに挙げたピッチャーは、比較的長く成功したキャリアを送っており、1938年は、リーグ平均よりも良い防御率をおさめている。

ゲーリッグの対戦の全てがハイレベルだったわけではない。8月20日の6打点は、サンドバッグ状態だったBuck Rossから(9勝16敗、防御率5.32)。8月16日の5打点は、セナターズの凡庸なピッチャーKen Chase (9勝10敗、防御率5.58)と Chief Hogsett(5勝6敗、防御率6.03)から。しかし、総じて、ゲーリッグが好調期間に、異常に弱い投手とだけ対戦したということではないと言える。

最後の可能性は、ゲーリッグが、一時的なALSリバーサルを経験した、というものである。ALSでは、運動ニューロンの細胞死を起こすプロセス(denervation, 徐神経)が、側枝発芽によって細胞死を補おうとする身体の能力(reinnervation, 神経再支配)を上回ると、筋力の衰弱が進行する。ALSモデルでは、徐神経を遅らせるか、神経再支配を促進することで、筋力の衰弱に影響を与えることができる。おそらく、このどちらか一方、あるいは両方が、ゲーリッグの体の中で自然に起こっていたのではないか。ゲーリッグは、問題のその3週間の間に、調子が良い、だとか、力が上がっている、だとかはっきりと口に出していったわけではない。しかし、バッティングパフォーマンス以上に、彼が力強く、エネルギーに満ち溢れていたことを示す証拠がある。8月12日から27日の16日間に、ヤンキースは10試合のダブルヘッダーを戦っている(1938年時点で、照明がついているスタジアムは2つしかなかった)。この間、4安打を放ってから最後の2イニングを残してベンチに下がった1試合を除いて、全試合にフル出場している。ダブルヘッダーの週に1日だけあった休日には、ニュージャージー州のブリーレの海岸から出発して、釣りをしていたと報じられている。

この様子は、野球の鉄人としてのゲーリッグの名声と一致するが、当時、ALSの症状を感じていた人物とは思えない。

対照的に、シーズンの残り2週間では、3試合で早々とベンチに下がっており、新聞では、落ち着きがなく、バッティングの調子が狂っている、と書かれている。

同様の兆候は、シーズンのはじめにもみられている。さらに、9月18日の飛距離を競うホームランコンテストでは、ゲーリッグは6人の参加選手中、最下位だった。その6人のうちの一人は、大リーグキャリアを通して10本しか本塁打を打ったことがない選手が含まれていた。明らかに、ゲーリッグが経験しALSリバーサルは、姿を消していた。

1938年シーズンにゲーリッグが経験した小春日和からは、重要な学ぶべき点がある。新たにALSと診断された患者さんに、ALSの症状が一定の速度で進行しないことや、一般的でないことが起こりうる、ということを教えるときに、このことを参照することができる。また、ALSの患者さんの筋力が回復したという逸話的なレポートを解釈するときには、頭に入れておくべきである。回復は、必ずしも治療の結果とは限らず、病気の自然経過の一部である可能性もある。最後に、一時的で、特に劇的で持続的なALSリバーサルは、研究する価値があるかもしれない。この仕組みがわかれば、より頻繁にALSリバーサルを起こすことが実現するかもしれない。

責任著者: Richard Bedlack

出典:A Great Yankee’s Indian Summer: Did Lou Gehrig Experience a Temporary ALS Reversal While Playing in August 1938?
DOI: 
https://doi.org/10.17161/rrnmf.v1i3.13681

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